2014年07月28日

【後日譚】四十九日〜過去と向き合う〜

 今日で四十九日(忌明け)を迎えました。
 ラナは天国に渡り、私の気持ちもすっきりしたかといえば全然そんなことはなく、漆黒の闇のような胸の穴が埋まるには、まだまだ時間が必要みたいです。

 一つ感じるのが、「まだ哀しみ足りないのではないか」という点。
 看取った直後は、慟哭という表現がふさわしい泣きっぷりでした。夜が明けても、人目も気にせず涙していました。

 分岐点は、荼毘に付した後。
 気が付けば無気力になってしまい、過去に向き合あおうという意欲が失われていました。この状態は、60日の闘病生活にかなりの時間・労力・コスト・情熱を注いだ結果、燃え尽きて灰になったためなのか、無意識下でこれ以上の哀しみは受け止めきれないという自己防衛本能が働いたためなのか、分かりません。
 以降、涙を流すことはなくなりましたが、今思えば、胸の奥深くに哀しみの核がまだ残っていて、理性の箱に押し込めて蓋をしただけだったような気がします。箱の中で渦巻く哀しみの感情は、寝入った際に蓋から漏れ出て、夢を見てうなされるという形で現れていたように思います。

 いつまでも逃避してばかりの自分に嫌気がさしつつも、どうしようもなかった時、ふと現在の自分の状況を客観視してみたいと思うようになりました。今までやりたいことなどひとつもなかったんですから、これはひとつのターニングポイントだったように思います。

 久しぶりにネットサーフィンして、ペットロスと呼ばれる言葉の意味や悲嘆のプロセスについて知りましたが、さらに書籍からも知識を取り入れたいと、いくつか本を買って読み始めました。
 何冊か読んでいるうちに、ふと腑に落ちるものがありました。死別の哀しみを乗り越えるには、犬の存在を自分の中でどう位置付け、どのように関わり合い、その死をどう捉えたかを理解するのがヒントになるようです。

 結局それは、ずっと逃げてきた過去と向き合うことでした。
 ラナと共に過ごした時間を振り返ってみて、幸せだったことや後悔していることなど当時の思いを改めて認識すれば、おのずと残っていた哀しみを受け止めることになるんじゃないでしょうか。

 ラナとの11年半の思い出…といっても、漠然として、なんだか記憶が霞がかったようで今ひとつ鮮明に思い出せない。闘病の頃はすごくリアルに思い出せるんですが、それ以前の日々についてはなんだか遥か昔の出来事のような感覚がします。共に川下りした記録は膨大にありますので、この記録を繙きながら記憶を呼び起こしてみようかと思いました。

 川下りの記録は約10年半分あります。まずはおおざっぱな流れを捉えるために、年表を作ろうかなと考えています。またどの川を何日間下ったかという統計データも作ってみようと思いましたが、これはピボットテーブルでわりとすぐ集計できました。
 
 ラナ出撃日数合計 597日 →大会やケガなどで一緒に下ってない日も多い。
 ラナ年間平均日数 49.8日
 ラナ 漕破 総数 143本

 ※ダウンリバーした日のみを抽出。川遊びのみは除く。

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ニックネーム ラナ父 at 23:39| Comment(2) | 悲哀の仕事編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月27日

【後日譚】ペットロス関連の本 2

 ラナを迎え入れるにあたって、犬の選び方、飼い方・しつけ方、ゴールデンレトリーバー専門書などいろいろ目を通してきましたが、その後わんこ関連の本については、あまり読む機会がありませんでした。迎え入れる目的が「カヌーで共に川旅をするため」と明確に決まっていて、それが実現されている限りは満足でした。そこで世界が閉じられてしまっていて、他者の関係にそれほど興味を抱くことがなかったということなんでしょうね。興味があったのはカヌー犬くらいでした。また、わんこのことなら何でも知りたいという気持ちに乏しかったとも思います(がん発見が遅れた原因のひとつはここにあると思っているので、今ではとても後悔していますが)。

 それが、60日間の闘病を経てラナを喪ってみて、他の人が自分の犬とどう向き合ってきたか(関係性)、その死をどのように受け止めたかについて、とても興味が湧いてきました。本を読み始めたきっかけはペットロス克服のヒントがほしいというシンプルなものでしたが、飼い主の性格、犬との関わり方や別れ方など「背景」がとても重要なんですね。
 ということで今回は以下3冊読破しました。

■ごとうやすゆき,2006;「ダメ犬グー 11年+108日の物語」幻冬舎
・イラストエッセイ
・日常の描写、犬の個性の描写が多く、感情移入しやすかった。一度死にかけて復活するシーンがありますが、そこの捉え方が同じでした。
 「グーがいなくなっても大丈夫なように、ぼくたちに心の準備をさせてくれたのかもしれないね。
 グー、ありがとう。」

■中野孝次,1990;「ハラスのいた日々」文藝春秋
・エッセイ
・「犬は家族の一員」という認識は今では当たり前かもしれませんが、1970〜80年代ではどうだったんでしょう。「犬であって犬でなかった」「人生の一部であった」。「飼主にとってはその犬以外の犬ではだめだという、ある絶対的な存在になる」。
 あと、犬は老いて始めてから、「人間にとってかけ替えのないもの、生の同伴者といった存在」になるというとおり、老犬になってからのエピソードが多い。

■折原みと,2012;「おひとりさま、犬をかう」講談社
・エッセイ
・全体を通じてこの人、強いなあと思う。
 喪失の悲しみはひとりで抱え込まない。「悲しみは分け合うもの」
 「一番辛いのは後悔すること」「だけど、悔いなく過ごした時間は、幸せな思い出となる」。

 ラナとは、とくに老いの兆しを見せてからは、悔いなきようにたくさんの川を下ろうと思って行動してきました。そろそろ、過去と向き合ってみますかね…。

 といっても、まだまだ読み足りない。今待ち状態のものは以下のとおり。他にもよさげなものがないか物色中です。

■谷口ジロー,2001;「犬を飼う」小学館

■コンラート・ローレンツ,2009;「人イヌにあう」早川書房

■斉藤政喜,2005;「シェルパ斉藤の犬と旅に出よう」新潮社

 ちなみに、本日ようやく川下りしました。行き先は御嶽。ここへ訪れるのはGW中、抗がん剤投入直前にラナと下って以来です。どうしても思い出してしまって、胸がドキドキして苦しかった。でも、子どもたちがめいっぱい楽しんでくれました。また連れて行ってやりたいと思います。

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ニックネーム ラナ父 at 23:02| Comment(4) | 悲哀の仕事編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月22日

【後日譚】ペットロス関連の本 1

 三連休、妻子は里帰り。私はといえば、気遣ってもらって独り静かに自宅で過ごしました。うち二日間は酒とゲームに浸りきりという今までと変わらない過ごし方でしたが、最終日は久しぶりに本を読みました。

 読書は、私にとってかなり消耗の激しい作業でして、ある程度心身状態に余裕がないとやれません。そういう意味では、何か読んでみようかなという意欲が出てきたのは、よい兆しなんではないかと思います。とはいえ、本来好きなミステリを読もうという気はまったく起こらず、対象はペットロス、愛犬との死別の哀しみ Bereavement について書かれた本です。先週あたりからいくつか書店を回ってみてたんですが、そんなコーナーはやっぱりというか、ありません。こういう時はAmazonが便利ですね。お手軽に探せます。気力の閾値が著しく低下している今の私には非常にありがたい。あまり深く考えず、お値段とタイトルと表紙のみで適当に何冊か選びました。

■松田朋子,2011;「さよならの合図 ペットロスから再び笑顔を取り戻すまでの90日間」メディアファクトリー
・読みやすそうだったので購入。
・エッセイ(マンガ)
・お別れの仕方がウチのラナとけっこう共通。とくに「散歩に行こうよ」のあたり。マンガだけあって、あっという間に読了。リハビリにはちょうどよかった。

■穴澤賢,2010;「またね、富士丸。」世界文化社
・表紙が大型犬だったので購入。
・エッセイ
・今の私と近しい年齢時に亡くしていることからも、感情移入しやすかった。「結局、時の流れに身を任せるしかない」という言葉が心に残った。

■カタリナ房子,2002;「ペットロスから立ち直るとき 愛犬レイアがくれた無償の愛」ハート出版
・表紙がゴルだったので購入。
・エッセイ
・死因があまりに理不尽で、私なら復讐するかも。いつまでも泣きたくなったら泣けばいい。それだけ愛せた証だから、という言葉はありがたかった。

■鷲巣月美編,1998;「ペットの死、その時あなたは」三省堂
・「ペットががんになった時」と同じ作者だったので購入
・実用本
・考え方を体系立てて整理するのに役立つ。印象に残ったのは「死は敗北でない」という一文。よい死を迎えさせることも飼い主の責任という考え方にはっとさせられた。


 ちなみに以下は注文済みで待ちのもの。他にもよさげなものがないか物色中です。

■中野孝次,1990;「ハラスのいた日々」文藝春秋

■折原みと,2012;「おひとりさま、犬をかう」講談社

■ごとうやすゆき,2006;「ダメ犬グー 11年+108日の物語」幻冬舎


 徐々に前に向かって歩き出した感がありますが、まだ過去に直接向き合おうという意欲は湧いてこない。この読書という行為も結局のところ逃避ではないのかという気がしないでもないですが、必要なプロセスだと思いたい。でもまあ、きっと「時の流れに身を任せる」気持ちでいたほうがいいんでしょうね。


ニックネーム ラナ父 at 23:36| Comment(12) | 悲哀の仕事編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月16日

【後日譚】悲嘆のプロセス

 気が付けば月命日(7月10日)も過ぎ、五七日(7月14日)も過ぎました。四十九日(7月28日)までも、あと2週間を切りました。

 ラナを荼毘に付した後、やりたいことについてあれこれ書き出してはみたものの、実は今日に至るまで何ひとつとして手をつけられてません。

 無気力。

 何かやりたいというエネルギーが湧き上がってこない。川で漕ぎたいという気持ちがゼロではないんですが、9割方は失われている状態。
 妻と子どもたちがいて、仕事があるから、平日の生活習慣は大きくは変わってません。職場では、フツーに会話もできるし、笑いもする。ラナのことに話題が及んでも、涙を見せることなく、冷静に話ができるようになりました。

 でも、あの日から、時計の針は動いていない気がします。過去と向き合うことで少しずつ気持ちを整理していこうと考えていたのに、記憶の引き出しを開ける意欲が湧いてこない。

 4月にラナが倒れて以降、血管肉腫に関する情報を集め、対策を考え、処置してきた時間は今、アルコールを浴び、ゲームの空想世界に逃避する時間へと置換されてしまいました。過去にも強烈なストレスに晒されると自分の内の世界に閉じこもる行為を何度か経験していますが、今回のはちょっと長い。

 まあ、いわゆる「ペットロス」と呼ばれる状態になるんやろなとはうすうす感じてはいましたが、その実具体的にどういう症状をそう呼ぶのかは知りませんでした。少なくともラナが亡くなる前に調べようという気は起きませんでした。亡くなった直後には、自身を客観化するためにペットロス関連の書籍を読み込むことも必要と考えていましたが、少し時間を重ねると何を考えるにも億劫になり、結局まったく手つかずのままでした。

 それが、今週末の三連休を迎えるにあたり、嫁さんにやりたいことをいろいろ聞かれて、まったく何もする気が起きてこないことに気が付き、自身の症状と「ペットロス」との関連が気になってちょっとググってみようと思い立ちました。

 ・心身に様々な反応が生じるのは特別なことではない。
 ・時間の経過とともにプロセスを経て緩和していくが、その人の個性、環境、絆の深さなどにより回復までに必要な期間は様々(1ヶ月〜3ヶ月、1年以上のケースも)。
 ・喪失の悲しみを克服するには、以下の5段階のプロセスを経るらしい。

 ※プロセスは人により様々でしたが、ざっと見た限りではキュブラー・ロス(5段階)、アルフォンス・デーケン(12段階)のものが有名どころのようです。しかし、そもそもはがん患者など死期の迫った者自身が、「死」を受容していく心理的過程を現したものなので、ちょっと違和感がありました。

 以下、プロセスごとに、思うところを書いてみました。

 1.事実の拒絶 denial…死の事実を否定する段階

 60日間の闘病の最中、徐々に覚悟を養っていったし、最期も看取れたし、荼毘にも付した。拒絶しようがありません。それよりも、その前段階、最初に倒れた時とターミナルケアの選択を迫られた時(予期悲嘆)に、拒絶反応がありました。しかし、その時はやらなければならないことが山積みで(前者はラナを救うため、後者は苦痛を少しでも取り除くため)、拒絶という形で立ち止まることは許されない状況でした。だから、ほとんど体験していません。


 2.周囲への怒り anger…死の原因を獣医や家族や友人知人などに向ける段階

 怒りの矛先は、最終的には自分自身に向きました。知識と経験が足りなかったことに対して。最初に倒れて死にかけた一ヶ月前から、一日中動けなくなったり、食欲が落ちたりとサインはありました。なぜあの時、血管肉腫と分かってやれなかったんだろう。ゴールデンレトリーバーはとくにガンに罹りやすい犬種だと知っていたら、もっと定期的に検査して早期に発見できていたら、また違った未来があったのではないか…?
 この怒りは、今もずっと燻り続けていて、次のプロセスに移ったからといって消失するものではないと思います。小さくなっても、おそらく一生消えることは、ない。

 3.回避の取引 bargaining…死からの復活を願う段階

 まだラナが生きているうちに「血管肉腫が治るなら、自分の寿命を10年奉げます」なら分かるけど、クローンならまだしも、骨と化した身体が再び動き回るなんて想像できない。取引したいという気持ちにはなりようがありません。

 ただ、逢いたいという気持ちはあります。夢の世界であれば、逢えるんじゃないかと思ってます。シチュエーションは憶えてませんが、なんどかラナが登場する夢を見ました。
 どこか覚めていて、これは夢だと理解している。歩き方や毛並み、表情が鮮明に再現できていることに驚き喜ぶ反面、夢から覚めつつあることを察したとき、ふだん蓋をしている悲しみが解き放たれ、強く渦巻いてしまう。しばらくうなされたあと、目が覚めるというパターン。胸が痛むけど、また出てきてほしいと思ってしまう。

 4.抑鬱 depression…死という事実が変わらないことを悟り、無気力になる段階

 これまでのプロセスがしっくりと来るわけではないんですが、現在は、この抑鬱のプロセスにあると思われます。といっても、プロセスをひとつずつ乗り越えた結果ではなく、2〜5段階を同時並行的にこなしている中、この4が最も強いかなという印象。
 以前にも書きましたが、「川下り」は趣味といいながらも、相当長く、深くのめりこんでいました。ライフワーク、生きがいと言ってもよいと思います。そこのモチベーションが上がらないということは、現在は生きがいを失っているに等しい状態かと。

 5.事実の受容 acceptance…死を受容し、心に平安が訪れる段階

 死は、遅かれ早かれ必ず訪れるもの。そんなことは当然と受け入れていたつもりでしたが、今の精神状態から鑑みると、理解はできていても納得はしていないんでしょうね。理屈だけでどうにかなるものではないみたい。いつになればこの無気力状態から脱却できるのか、現在のところ検討もつきませんが、ただ今までは自身の気持ちをこうして文字にしてまとめることすら億劫に感じていたから、少しは前に向かって歩き始めつつあるのかなとは思います。


ニックネーム ラナ父 at 22:50| Comment(2) | 悲哀の仕事編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする